その昔、球磨川の多くの鮎は尺鮎と呼ぶほど大きく、当時のことを知る人間は『鯖ほどの大きさの鮎もおった』 と言うほど、球磨川と川辺川の鮎は巨大でした。
昭和三十年代までは、流れに座り、手で鮎を押さえて獲る 『鮎押さえ』という漁法があったほど、鮎が豊かだった球磨川も、ダムや堰が3つ出来てからは、鮎資源は激減しました。 今では海に一番近い堰の下流で、遡上してきた鮎をすくい上げ、上流の約三十箇所に放流し、資源を保っています。 但し、川辺川には今でもダムがないので、潤沢な清流が絶えず流れ、瀬の奔流が水に酸素を与え、南国の豊かな日照とあいまって、鮎の餌である珪藻を育てます。 また、瀬の激しい流れは鮎を鍛え、一方で何箇所もある淵が、大水の時には鮎に避難場所を提供します。 こうした自然の好条件が、川辺川の鮎を天下の美味に育ててくれます。 川辺川にダムを建設する話がいまだに生きていますが、もし、そうなれば、この素晴らしい鮎は実質、絶滅することしょう。 |
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初代の頼藤清が明治三十五年に創業した 鮎問屋 より藤。こよなく球磨川の鮎を愛し、天秤棒を担いで行商したのが始まりです。二代目、三代目と球磨川の鮎にこだわり続け、今も伝統の味を受け継いでいます。
名物の焼き鮎とうるかは、落ち鮎が主役9月末から10月末、日没から夜明けまで、球磨川と川辺川のあちこちで、落ち鮎の刺し網漁が川漁師たちによって営まれます。この時期の卵と白子を持った大人の鮎は、急流に鍛えられた骨と筋肉が充実しているものの、脂は卵と白子に奪われ、まさにアスリートの身体となります。 もちろん、苦うるかになる内臓も脂がうせ、最高の状態になります。 毎朝、鮎問屋 より藤 には、契約している、五十名ほどの川漁師が獲って氷締めにした鮎が持ち込まれます。 夜獲りと朝獲りでは値段が違う こだわりはここにも鮎は昼間に盛んに食し、夜は食べません。その為、日没後の夜に水揚げされる鮎はお腹に餌が入っています。それに対して、朝方のものは、お腹が空っぽになり、腹部がやせています。 特に鮎は 『腹から痛む』 ものなので、腹が空っぽの朝獲りの鮎を、より藤では高値で買い取ります。 長年の経験で、『見れば、直ぐに夜か朝かはわかります。』 頼藤三代目談。 その昔は薬としても珍重された、苦うるかより藤では落ち鮎の肝臓と胃と腸などを使い、苦うるかを仕込みます。調味料は沖縄の天然塩のみ。胃と腸はきれいに中を洗い、餌の残りなどを取り去り、約2割の塩で樽に漬けます。 鮎の水揚げにもよりますが、毎年、出来上がりで120kg〜150kを仕込みます。 仕込みが終わると、秋から冬にかけて、常温で3〜4ヶ月、毎日、樽をかき混ぜて熟成させます。 |
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三代目主人の頼藤浩さんは、多い日は1日15時間、鮎の選別とうるかなどの仕込みに追われます。 落ち鮎の季節になると、多い日には200kgもの鮎が集荷されます。 1尾平均が150gだとして、1333尾です。資源が激減してこれですから、その昔の豊かな鮎資源はどんなにか凄かったか、想像に難くありません。 その鮎を先ずは目利きし、『これはうるか用、これは鮮魚用、これは甘露煮用・・・』 その選別だけで、午前中を費やしてしまいます。 選別後、鮎をさばいて、うるかの原料である内臓と卵・白子を取り出し、腸や胃の掃除をし、塩加減をする。この作業は鮎がなくなるまで続きます。 重要なこの仕事は主人が一人でします。長年、鮎を見つめている人間でないと、良い仕事が出来ない、経験と勘がものを言う世界です。
人に頼まれても 『売るか!』 が『うるか』の語源?うるかの語源は 「暁川」 明け方の鮎で作る『うるか』の味が良いため、このような字を当てたようですが、昔の人は良く考えたものです。 作るのが大変でも美味なので、人に譲って欲しいと頼まれても、『売るか』 という文字もしっくりきますが。『 こがん苦かもの うまかとじゃろかて?
十分に寝かせて、熟れた苦うるかは、日本酒や焼酎の酒肴に、熱々ご飯のおかずに、その魅力を発揮しますが、昔は胃腸薬にも使われていました。 |
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落鮎を炭火で約二時間かけて焼き上げ、二昼夜、乾燥釜で完成させる昔ながらの保存食です。贅沢ですが、この出汁でお正月の雑煮を作るのが伝統です。 落ち鮎の枯れた味 骨も身も皮も錆びていますが、だからこそ、良い味がでます。 若鮎では、このような上質で淡白にして力強い出汁は取れません。 もちろん、弱火でじっくりと煮れば、骨まで食べることもできますし、出汁を取った後で甘露煮にしても美味です。 天然落ち鮎の骨酒も美味熱々の燗をつけ、落ち鮎を寝かせた器にその燗酒を注ぎ、しばらく待ちます。岩魚の骨酒と同じ要領ですが、球磨川の焼き鮎の場合は、錆びた鮎の渋い魅力が発揮されます。難点は鮎が大きいので、小さな器では入らないことです。(株式会社 食文化 代表取締役社長 萩原章史) |